1993年からはスバルワールドラリーチームに移籍、同僚のアリスター・マクレーとイギリスラリー選手権を争い、
最も若いチャンピオンとなった。
1994、1995年はWRCやアジア・パシフィックラリー選手権 (APRC) に出場するがなかなか思うような結果が出ないシーズンが続く。
1996年からは三菱に移籍し、その年のAPRCのニュージーランドラリーで初優勝するなど実力を見せ始めた。
1998年のサファリラリー
でついにWRCでも初優勝
、さらにその年のグレートブリテン
でも優勝し
、
三菱にこの年のドライバーズ
[
、マニュファクチャラーズのダブルタイトルをもたらした。
1999年からはスバルに復帰。序盤はマシンの熟成不足とピレリタイヤの開発不足で出遅れたが、中盤からはマシンとタイヤの開発が進むと
持ち前の速さを発揮しアクロポリス、オーストラリア、グレートブリテンで勝利し、ドライバーズタイトルを2位で終える。
翌2000年はクリスチャン・ロリオーが開発したインプレッサでラリーを戦うも革新的な設計が仇となり、あと一歩のところで、
マーカス・グロンホルムにドライバーズタイトルをさらわれてしまった。
2001年は、GDB型となったニューマシン、インプレッサWRC2001のマイナートラブルに悩まされるも着実にポイントを重ね、
ニュージーランドでの1勝のみであったが念願の世界チャンピオンを獲得
。イングランド
出身では初の世界チャンピオンとなった。
悪夢の病魔
2003年も安定した走りでポイントを重ね、チャンピオンの可能性を残して11月の最終戦ラリーGBを迎えようとした。
しかし、開催地カーディフへの移動のため愛車のポルシェ・996GT3を走らせていたところ、高速道路上で突然失神。
同乗していたマルコ・マルティンのとっさの判断で事なきを得た。
精密検査の結果、脳腫瘍が発見され、急遽最終戦を欠場。この年ヒュンダイのシーズン途中の撤退でシートを失っていた、
フレディ・ロイクスが代役を務めた。
発見された脳腫瘍は当初治療できる程度のものと言われていたが、悪性脳腫瘍のひとつで極めて治療の難しい「星状細胞腫」であることが判明した。
この年、シーズンの途中で、ベルギーのラリー記者ミシェル・リザンに「最近、走っていると記憶が無くなるときがある」
と洩らした。リザンはその言葉に一抹の不安を感じたが、予感は的中することとなった。
バーンズは2004年シーズンにスバルへ復帰する予定だったが病気治療のため静養し、結局、2003年シーズン限りで実質的な引退となった。
一時は回復の兆しを見せ、2005年8月、イングランドのキャッスルクームで行われたバーンズを応援するイベントに車椅子で参加。
観客からの歓声に思わず涙を滲ませるシーンもあったが、これが公に見せた最後の姿となった。
ドライバーとしての復帰を諦めず最後まで病と戦い続けたが、その年の11月25日、脳腫瘍のため死去。34歳没。
最後の数日間は昏睡状態に陥り、静かに息を引き取った。彼を看取ったのは家族と限られた友人、そして最愛の女性でパートナーのゾーイであった。
命日となった11月25日は、2001年に世界王者を獲得した日でもあった。